東日本大震災の初日・二日目について

 昨日起きた東日本大震災
 まだ、自分の身の回りで起こったことについて、全然整理が付かないけど、取り合えず備忘録として記します。

初日…平成23年3月11日(金)
 前職場でお世話になった方の送別会が早めの開始時間だったので、顎関節症の治療も兼ねて2時間休暇を取得していた。
 初めの地震を感じた場所は、今職場であるビルの12階の執務室であった。とても大きな揺れを感じ恐怖を感じたことと、放送で指示があったので机の中に蹲ったりした。
 その後、ネットで情報収集し、今回の地震で一番の被害を受けたのが宮城県震度7と判明して、嫁の実家が仙台市なためかなり心配になる。しかし、以前に東北地方で地震がある度に、電話やメールが通じないことが分かっているので、しばらく連絡しても意味がないと思っていたので、しばらくしたら連絡しようと思った。
 また、嫁から職場に電話があり、取り合えず歩いて自宅へ帰ることの連絡があった。
 15時45分、有休取得時間になったが、どう行動しようと思ったけど、次にいつ顎関節症の治療が受けられるか分からないので、取り合えず新宿にある整骨院へ向かった。
 整骨院に到着したものの、先ほどの大きな地震の影響で、店内のものが結構散乱し片付けていたところだった。
 しかし、すぐに治療を受けられたので、その点はとても助かった。ただ、余震の度に針治療が途中で止まるのは、ちょっと怖かった。
 1時間程度で治療が終わり、交通機関の情報を整骨院で確認すると、鉄道はJR・地下鉄も動いていないとのことであった。
 その時点で午後5時半過ぎで、送別会が午後6時からで飯田橋で開催されるため、絶対に間に合わないことが判明。携帯電話で前職場の人たちの何人かに電話やメールをするものの全然通じないため、とにかく前職場まで歩いてみることにした。
 新宿駅西口を地下から東口に抜けて、靖国通りを歩いて九段下まで辿り着こうと考えた。靖国通りは幹線道路なので、何かあっても直ぐに避難場所に通じると考えたためである。
 まずは歩いて新宿駅に向かった。新宿駅ではいつもより大量の人たちが一杯いるが、バスとタクシー以外の公共交通機関が動いていないので、階段に蹲っている人たちが多かった。卒業式帰りの人たちも多く、和服を着た人たちが歩き辛そうに見えてちょっと気の毒であった。
 新宿駅の地下を潜って東口へ抜けて、伊勢丹を過ぎた辺りで地上に出て、一路靖国通りを東上。車両はとっても混雑し、救急車や消防車ですら通れない状況。歩道も結構混雑していたが、行き交う人の表情はそこまで暗くなかった。
 途中、お腹が空いてきたが、コンビニや開いている飲食店はとても混雑しているので、諦めて歩き続けた。また、公衆電話も混雑していたので、前職場の人たちと連絡を取るのは諦めた。
 結局1時間半程度掛かって九段下に辿り着き、前職場に辿り着いたら、皆が防災服を着ていたので送別会はなくなったとすっかり諦めた。また、帰宅を諦めたと思われるこの付近に勤務する方々が結構いらっしゃったので、ブルーシートを敷くのや毛布を配布するのを手伝ったりした。
 その際、踵が痛くなり、今日は堅い革靴で歩いてきたことを思い出し、本日は歩いて帰ることを断念。その後は前職場の各施設の避難人数を確認したり、前職場でやっていたことを質問されたりで過ごしていた。
 ちなみに、携帯電話の充電も一人30分限定で受け付けていた。そんなこんなでふっと気がついたら、午前0時を過ぎていた…。
 そのとき、ふと気がついて自宅に連絡し、自分の家族の無事と親戚の無事を確認して、職場の床で毛布に包まって寝たのは大体午前2時ぐらい。だけども、緊急エリアメールの度に起きていたので、あまり寝た気はしなかった。
2日目…平成23年3月12日(土)
 翌朝6時から、対策本部が開かれると聞いていたので、5時半に起きて職場に復帰。それからは、乾パンと水をもぐもぐさせながら、各施設と頻繁なやり取りをした。
 その後は、公共交通機関が復活してきたので、避難者が減ってきたため、ブルーシートや毛布の片付けをしたり、乾パンや水が足りないといわれた施設へ届けたりした。
 午前10時過ぎには、大体手伝うこともなくなって来たので、順次職員数を減らすとのお達しが出たので、帰る方向が一緒の職員と一緒に帰宅することに。実は問題はそこから。
 我々が北千住が着いたときには、北千住以北は交通機関が復活していなかったので、北千住から自宅までは歩きで帰ることになり、大体1時間半程度歩いたところで梅島陸橋へ辿り着いたが、かなり足の踵の痛みが辛くなってきた。そんなところへ、嫁から連絡があり、車で迎えに来てくれることに!。
 何とか日光街道沿いにあるヤマダ電機へ入り、皆で嫁の迎えを待つことに。その際、同僚の方から息子へのプレゼントをいただいて、驚きとともに感謝感謝。
 10分も待たずに嫁が到着し、同僚を送った後、少し日常の買い物をしてから自宅へ。息子にプレゼントを渡しながら昼飯を食べて、息子の寝かし付けを嫁に任すも、食べ終えた後すぐ自分も布団に潜り込む。
 2時間半程度寝た後、また乾電池やガスバーナーなどを買い込みに行くも、ガスバーナーは買えず。乾電池は買えたけど、皆やっぱり対応が早いなぁ…。
 午後6時過ぎ、嫁の実家である仙台市の親戚が、何とか無事なことが判明してかなりホッとした。しかし、嫁の母方の親戚が福島県いわき市に住んでいて、全然連絡が取れないのでまだ予断を許せない状況。
 停電の恐れがあるので、早めに息子と風呂に入った後、夕食を取る。その際に、メキシコから来ている従弟から連絡があり、無事なことが判明。ただし、彼の自宅そばの公共交通機関が動いていないため、我々の自宅には来れないとのことであったが、自宅そばに自衛隊の基地があって、避難所として開放しているのでそこに行くとのことであった。
 午後11時過ぎ、ようやく福島県いわき市に住む嫁の親戚と連絡が取れた。ただ今避難所にいるとのことで、自宅は津波で全壊したとのこと。親戚の心の傷を思うと中々気持ちの整理が付かない。
 ただ、時間は通り過ぎていくので、その中で自分ができることをやっていこうと思う。